Romance Dawn

藤井流星くんとジャニーズWESTについて

十字架を飛び越えた日

踏み絵(ふみえ)とは、江戸幕府が当時禁止していたキリスト教カトリック教会)の信徒(キリシタン)を発見するために使用した絵である。本来、発見の手法自体は絵踏(えふみ)と呼ばれるが、手法そのものを踏み絵と呼ぶ場合も多い。

(Wikipediaより引用)

 

2016年12月24日

私は京セラドームのスタンド席にいた。

 コンサート開始数分前。

客席は七色の光で埋め尽くされており、無数の光の波は彼らのデビュー曲「ええじゃないか」に合わせて揺れていた。

 

待ちに待ったドーム公演、初見の爆発的な熱量と活気でセットリストは進んでいった。

そして迎えたJr.時代メドレー。

2013年から関西Jr.を追いかけ始めた私にとって、正直この5曲のメドレーは昔の曲だ、知ってる、歌える、程度の印象だった。

しかし客席の反応は違っていた。

イントロが鳴るたびにどよめき、京セラドームは揺れた。

周りで泣き始める子たちも多かった。

 

 

私は泣けなかった。

もちろん気分は高揚していたし、大きな声で歌い全力で踊った。

でも泣けなかった。

 

このメドレーは踏み絵のようなものだと思った。

このメドレーで泣けない人間はこの先俺たちについてこれないぞ、と言われているような気がした。

寂しや悲しさやモヤモヤした不信感のようなものではなく、ただ単純に素朴に「あぁ、踏み入る隙がない」と思った。

今この瞬間泣いている子たちと、7人の間に、私の入り込む隙間が存在していないと思った。

入り込むべきでもないとも思った。

全てはタイミング。

私はこのメドレーを聴いて涙を流すにはまだ日が浅かった。

理由はストンと腑に落ちた。

 

 

 

グループに偏りはあるが、過去十数年間様々なジャニーズのコンサートを観てきた。

今回は中でも上位に食い込んでくるほど好きなコンサートだった。

緩急つきメリハリのあるセットリストと演出、ドーム用に新調された衣装もすべて素晴らしかった。

初日の夜、こんな楽しいコンサートがあと2回で終わるなんてもったいないという気持ちさえ抱いた。

終わって欲しくなかった。

永遠にイブとクリスマスをループしていたい、そんな気分だった。

 

 

 

 

ラストの3公演目が始まる直前、自分自身に願ったことがあった。

一瞬だけでいい、このコンサートで自分の中にこみ上げるものが生まれてほしかった。

息もできないような号泣じゃなくていい、自分の感情に火をつけるきっかけが欲しかった。

 

 

コンサートは順調に進んでいく。

 曲を辿っていくごとに、終わって欲しくない気持ちが大きくなっていった。

寂しくて、終わって欲しくなくて、家になんか帰らずここにいるみんなでずっとこうして歓喜の渦の中にいたいと思った。

そしてコンサートが終わってしまう前になんとか、自分の感情が爆発するのを体験したかった。

 

 

 

最後の挨拶で、まず望が泣き始めた。 

望の挨拶を聞いている流星くんの様子がおかしい。

流星くんは「泣きそうになっちゃったから空気変える」と笑った。

ドームは響き渡る楽しかったですか、という問いかけ。

4万5000人は全力で応じた。

私たちの声は一つの線となり流星くんの心臓を貫いた。

 

流星くんが、泣いている。

 

私たちの前では泣かないと思っていた流星くんが泣いた。

仕事で泣いたことないのに、泣きたくなかったなあ、と困ったように涙を流す流星くんを見て、私はようやく泣くことができた。

私の感情のスイッチを押したのは流星くんだった。

 

 

 

 7番目の淳太くんが、「会場が大きくなっても、近い距離で同じ歩幅で進んでいきたい。誰も置いて行かない。遅れそうな人がいたら、きちんと手を引く」と言った。

私はこの瞬間、昨日のメドレーで泣けなかった自分が許されたような気持ちになった。

そして、あのメドレーを踏み絵だと感じてしまった自分と、泣けなかった自分を全て許せるような気がした。

知らないことは知らないままでいい、今から思い出を共有していこう。

そんなメッセージを受け取るコンサートだった。

 

 

 

 

私はこの日、十字架に掛けられたイエスキリストと十字架を胸に抱く聖母マリアを踏まずに飛び越えた。

目の前には7人の救世主が腕を広げて待っていた。

もう恐れるものはない。

あとは、ただ信じてついていくだけ。